ヨーロッパ横断紀行
ランナーの巡礼歩き〜クラクフからジブラルタルまで6700km〜 太田 宏
12・・その2−フランス3(パリからLes Huttes(レ・ズテル)まで8/10-8/23)
【01.2016.8.11 Paris(パリ)からAuffargis(オーファルジ)まで】
【02.8.12(金) Auffargis(オーファルジ)からChartres(シャルトル)まで】
【03.8.13(金) Chartres(シャルトル)からSt.Malo(サン・マロ)まで】
【04.8.14(日) St.Malo(サン・マロ)からChâteau do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)まで】
【05.8.15(月) Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)−Camping de la Plage de Saint Pubu(サン・パブ キャンピングサイト)】
【06.8.16(火) Camping de la Plage de Saint Pubu(サン・パブ キャンピングサイト)- Plouezec(プルーエゼック)・・17(水) Ploumanac'h(プローマナック) 18(木) Ile de Bréhat(ブレア島) 19(金) Paimpol(パンポール)】
【07.2016.8.20(土) Plouezec(プルーエゼック)−Nantes(ナント)】
【08.8.21(日) Nantes(ナント)からMontaigu(モンテギュ)まで】
【09.8.22(月)Montaigu(モンテギュ)−Chantonnay(シャントネ) 】
【10.8.23(火)Chantonnay(シャントネ)−Les Huttes(レ・ズテル)】
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【01.2016.8.11 Paris(パリ)→Auffargis(オーファルジ)】+【Memoirs1】
2016/8/10(水)成田12:00発のエアロフロートは途中モスクワ・シェレメチェボ空港に降り立ち、滞在1時間45分で、パリ・シャルル・ドゴール空港に 20:50到着。RERで北駅に向かう。
2番地下鉄のAnvers(アンヴェール駅)にほど近いLe Régent Montmartre Hostel (ル リージェント モンマルトル ホステル)は、Gare du Nord(パリ北駅・ガール・デュ・ノール)からほど近く、RERを北駅で降りてRue de Dunkerque(ダンケルク通り)を西に真っすぐ行きさえすればよかった。
このHostelを予約したのには訳がある。前回訪れることができなかったBasilique du Sacré-Cœur(サクレクール寺院)にぜひ行ってみたいと思ったからである。
8/11(木)早朝の5時は、夏のパリでもまだ薄暗く、Boulevard de Rochechouart(ロシュシュアール通り)の大きな道もまだ車はそうは走っていない。そこを斜めに横断し、狭い路地をとにかく北向きに上がっていく。Saint-Pierre(サン・ピエール)通りの向こうはSquare Louise Michel(サクレクール・ルイ・ミシェル)公園で、サクレクール寺院を見上げるように広がる。西側にはケーブルカーが設置され開業の準備をしていた。階段をのぼりつめるとそこにライトアップした寺院がそそり立つ。下では徹夜で騒いでいたであろう若者たち。そろそろ引き上げる時間か。暗い境内であるが、ライトアップを頼りに寺院をスケッチ。そろりとPoliceの車が目の前に止まった。数人が降り、若者たちのところに向かう。何も起こらない。若者たちは散会するようだ。急に静かになった寺院でスケッチを続ける。高台からはパリの街並みが夜のしじまに浮かび上がり幻想的。
light-upped Basilique du Sacré-Cœur ;早朝のサクレクール
幾多の路地を通って下に降り、ホテルに戻って朝食を食べる(7時30分)。その後リュック姿となりチェックアウト。同じ地下鉄2番線のBarbès-Rochechouart(バルベル・ロシュシュアール駅)から目指すPère Lachaise(ペール・ラシェーズ駅)へ。
2番線は大変便利で、観光路線のような感じ。円弧を描きながらも乗り換えることなくペール・ラシェーズ墓地へと運んでくれる。ショパン、バルザック、ピアフの3人のお墓を詣でるのが目的。入り口に索引と地図が出ているのでそれをもとに歩を進める。1km四方もある広大な墓地は、中心部が迷路、周辺部は矩形の路地となっているものの、奥まったところにある墓はなかなか見つけるのに苦労した。
墓地は静かなもので閑散。東西に2か所しかない門。特に東門へは相当の距離を歩くことを覚悟しなければならない。全体は西に向けて丘を下っているので、東門から入ると坂道を下る形となる。ショパンのお墓を訪れようとして迷路を進むと、遠目から女性が花を手向けている姿。聞くとショパンの家系の方であると言う。涙がこぼれそうになる。没後200年以上はたつというのに、縁故者が毎日のように花を生けているとは。目頭が熱くなった。
これを済ませ次なるは、3番、4番を乗り継いでChâtelet(シャトレ)へ。Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)を訪れる。Rue de Rivoli(リヴォリ通り)とAvenue Victoria(ヴィクトリア通り)に南北を挟まれた形の公園の真ん中に、目指す塔が建っている。
高さは52m、フランス革命で取り壊された教会(サン・ジャック・ドゥ・ラ・ブシュリー教会)の遺構で唯一残ったとされる。建築様式はゴシック・フランボワイヤン。フランス国内を発する巡礼街道の一つトゥールの道の起点である。
1998年に巡礼路関連遺産として世界遺産に登録。見学は7月上旬〜9月中旬の金土日10:00-17:00.
Tour Saint-Jacques(サン・ジャックの塔)
その後はノートルダム大聖堂へと。
正直な話ここで一つ間違えればこの日8/11のパリは厳戒体制が敷かれ全交通機関が止まったかもしれないのだ。志摩サミットの当日渋谷のコインロッカーの前に置かれた一つのバッグもしかり、バルセロナの全地下鉄をstopさせた一つの鞄、それと同じ状況であったからだ。すなわち大きなリュックを背負った男、ノートルダムに入場するためには厳格な荷物検査があるため最少の手荷物だけにしなけれならない。入場を待つ列は長蛇。重い荷物をどうするか。周囲に聞こうとしたがその時点ではPoliceはいなかった。ドイツでリュックを盗まれている男はやにわに東新宿で仕入れた超強力チェーンを取りだしノートルダムの黒い柵にがんじがらめにして鍵まで掛けて列の最後尾に並んだのだ。
さて10分がたち男は列の前のイタリア人家族に了承を取って荷物が大丈夫であるか見に行った。
何事もなし。そういうことを2、3回繰り返していたのだ。30分ほどが経過した。突然列が進まなくなってしまった。何か様子がおかしい。Police の車が集まり出し列は封鎖されている。どうもリュックの回りが慌ただしい。
「それ僕のです。この通り鍵を持っています。外してみましょう!衣服とスケッチブック、ソーラパネルしか入っていません。」Police達は本部に連絡。あのアホな巡礼が−。大いに注意をされたことは言うまでもない。。持ち物に人が付いていないものは全て不審物になり爆弾処理の対象になるのだと。このParisではあり得ない状況であったのだと。コインロッカーかホテルに預けないかぎりノートルダムの入場はあり得ないと。まったく浅はかであった。
ドイツで「盗まれた」一件も爆弾処理班が処理したか誰かが警察に持っていったのかも知れない。横の連絡が悪く情報が伝わらず翌日になっても出てこなかったという事由ではなかったか。要するに不審物となるような"チェーン処理"はあり得ない時節なのだ。
スーパー等ではリュックはレジ横に置いて見ててもらうか、預かってもらうかしなければならない。小さければロッカーが利用できる。いかなる場合でも"不審物"ではないという主張が必要。
スーパーでは加えて別な解釈。袋ものの持ち込みは厳禁。商品を入れても分からずに出てこられるからだ。スケッチブックのサックすらも店員に預かってもらうのだ。そういう心遣いがヨーロッパでは必要である。
2016.8.11 Paris Access map
このあと直ぐにRambouillet(ランブイエ) に向かう列車が出るモンパルナス駅に走ったが巨大過ぎる駅は地下鉄を含め多層階をなす。コインロッカーさえも荷物検査があるという物々しさ。ロッカーのKey操作も難解。という訳でついにノートルダムには戻れずに旅を始めてしまっている。
6年前に知り合った人で、ランブイエ郊外のAuffargis村に住む女性を訪ねる。Monparnasse(モンパルナス駅)は近郊へのローカル線と郊外の主要都市を結ぶ長距離の急行など数種類の専用ホームがあり多層階を形成する。電光掲示板を見て飛び乗った電車が、運悪く各駅停車のローカル線だったらしく南西に50kmも離れているRambouillet(ランブイエ)へごとごとと70分もかけて各駅停車でゆっくりと進んだ。急行なら30分というのに。
この方、来週には北の道を歩き来年は四国遍路を歩きたいという。同じ年ながらこちらも若い。11月上旬にパリに戻る予定なのでその時も泊まっていけと誘われる。その時取り損なったスタンプを貰うようにしたいと。行為に甘えてもよいのだろうか。
シャルトルの大聖堂を観たいと思い、パリから歩くコースを練っていた時に、この近くに住むということが分かり2年前から連絡を取っていたのだ。
昨年はパリ止まりであったため会えず、今年はぜひというメール。しかしながら当初は、8月はビジーで、11月にパリで会えればという消極的なものであったが、8月の予定が空いたというので「ではぜひに。」というそういう調子で話が進んだのだ。
待ち合わせ場所としたのが、Rambouillet(ランブイエ)駅前。会う前に、すこし町の様子を知っておきたいと思い2,3時間かけて街を散策。当初はここから南に1kmほど離れた場所のホテルからシャルトルまで35,6kmを徒歩で向かうべく、ホテルまで予約してあったのであるが事前にキャンセルをし、Auffargis(オウファルジ)の自宅にお邪魔させてもらうことにした。
この城でも御多聞にもれず改修中。その城の一角をスケッチ。
Château de
Rambouillet;ランブイエ城
ランブイエ城(Château de Rambouillet)はフランス大統領の別邸となっており首脳会議が開かれたりする。城の前にJardin Anglais(アングレ庭園)が広がり池にはボートが浮かぶ。ランブイエ自身も広大な25平方kmにもおよぶ森の中にあり、さらにランブイエとパリの間にはParc naturel régional de la Haute Vallée de Chevreuse(オート・ヴァレ・ド・シェヴルーズ自然公園 )があり、ここは”森の南西イールド・フランス”と思っても間違いはない。
さて、約束の16:00となった。駅前でそわそわしながら会うべき婦人Catherineさんを待つ。6年前と変わらず駅に現れし。自宅はこの広大な森の中にある町Auffargis(オーファルジ)の教会通りに面している。さっそくお庭を拝見。ワイン蔵になっているという納屋をスケッチ。
Barn in Auffargis;オーファルジの納屋
Map Betweeen Paris
and Rambouillet;地図:parisからRambouillet
【02.2016.8.12(金) Auffargis(オーファルジ)→Chartres(シャルトル)】+
【Memoirs2 】
本日のコースは、Rambouillet(ランブイエ)からChartres(シャルトル)までの37km。
いよいよ歩行がはじまる。Auffargis(オウファルジ)のCatherine家を立った。シャルトルにあるD150の当初の予定コースの箇所まで車で送ってもらいいよいよ歩行がはじまる。
旅の装束
キャサリン氏がD150まで送ってくれ記念撮影してくれた。
彼女とは旅の最終日11月7日にパリで再会。
10km+10km+8km+8kmというようなインターバルで歩を進める。各2時間のインターバルであるが休憩時間は30分から1時間とたっぷり。マットを日陰に敷いて寝ころぶのだ。これが足には実によい。Camino道ではないため県道のみなら歩く人は皆無。
景色的にも昨年の続きのよう。7月に刈り取りが終わった麦畑がどこまでも続く。
Chartres(シャルトル)までの37kmは、D150という県道をひたすら歩くという単調な歩行。途中にある町々に近づく度に、迂回する筈の道から市街地に入るためほっと一息つく。シャルトルの13kmあたりの手前から、麦畑の向こうにいつも2本の塔が見え隠れする。すでにシャルトル大聖堂の2本の塔が見えていたのである。最初は町々の教会の塔かと思うも、次第に大聖堂に違いないと確信を持てるようになった。方角と照らし合わせてみても間違いはない。そこへ一目散という形。
Orphin(オルフィン)の町から道はD32と名前を変え、Gallardon(ガラルドン)に到達する。町の中心部はいきなり細い石畳。そこを抜けると再びD32と合流し、南西に向かう。シャルトルのMetropole(メトロポル)空港の広い敷地に張られたフェンスを見ながらVoie de la Liberté(リベルテ道路)をまっすぐ進む。もうここではシャルトル市内で、自動車道とは分離された快適な散策道路にかわる。Rue de la Croix Thibault(クロア・ティボ通り)の上部にある公園から眺望した教会をスケッチ。淡い緑色の屋根が印象的。1979年ユネスコの世界文化遺産に登録。
Cathédrale Notre-Dame de Chartres from entrance of Town,
町の入り口からシャルトル大聖堂
道は町中に入っていく。2本の川を渡るように見えるが、L'Eure(ユール川)に長細い島が横たわっているためである。道はどんどん狭くなり一方通行の旧市街地になっていく。
川のほとりにあるのが、Église St Pierre(サント・ピエール教会)で、目指すホテル Saint Pierre Appart Hotelはすぐ見つかった。リュックを置いて迷路をなす丘を上がりシャルトル大聖堂へ。
青のステンドグラスを見る。スペインのレオン大聖堂の赤のステンドグラスと対比して、青のステンドグラスのシャルトルが語られるほどこの聖堂のステンドグラスは青が特徴。
ただ窓に描かれる物語はそれぞれの色をもって輪郭や面が描かれるため赤色や黄色なども多種の色があるが全体としては青いのである。
Blue Stained glass ;教会内部のステンドグラス
二つの尖塔の右側は、高さ105mの角錐(1174年〜)であり、左側は、高さ113mの後期ゴシック・フランボワイアン様式(火焔式)の塔である。
front of Cathédrale Notre-Dame de Chartres
大観光地なので夜の9時50分までおもちゃ機関車が市内観光で走り回る。
Map Betweeen
Rambouillet and Chartres;地図:ランブイエからシャルトル
【03.2016.8.13(金) Chartres(シャルトル)−St.Malo(サン・マロ)】+【Memoirs3 】
本日のコースは、Chartres(シャルトル)−St.Malo(サン・マロ) 電車329km、徒歩7km。
今日(8/13)はサン・マロへの移動日。昼の電車なのでシャルトルの町を再度探索。部屋でスケッチの準備をしようと思ったら肝心のスケッチブックも含め道具一式が無くなっている。はて?
やはりお酒を飲むと注意が散漫になるらしい。昨夜はシャンジュ通りのレストランで食事をしながら大聖堂を描いたのだが、その後で隣の椅子の下に置いておいたのがまずかった。立ち去るときに道具一式が入ったサックを忘れて置き去りにしてしまっていた。その直前で隣のテーブルからガラスコップが落ち、ウェイトレスが掃除したりして慌ただしかったことも注意が散漫になった理由かもしれない。
さて?どうする。まずはその場所に行ってみることだ。あれだけ賑やかだった通りが閑散としている。沢山あったテーブルが片付けられガランとし、清掃車がそこを綺麗に水をまきながら進んでいた。パン屋の車が朝いちで各レストランやBarに出来立てのパンを配達している最中であった。藁をもすがる思いでBarのドアをノックしてみた。
コックが一人出てきた。朝のカフェを準備している最中であったようだ。窮状を訴え忘れ物が届いていないかと。このコック大きく頷き、奥へ引っ込んだ。昨夜からの申し送り状が届いていたのであろう、忘れ物を引っ提げてニコニコしながら現れた。あぁ、やった! 感謝のお礼を述べその足で、目星をつけておいたスケッチポイントへと。
寸描を時間の許す限り弾丸のごとく描き進む。リュックを持っていない身としては大変気軽な町散歩となった。下記はその一部。最初のがスケッチブックを忘れたときに描いていた寸描で、食卓で絵具を使うのを控えたため殆どデッサン画となっている。描いた時刻と方角が今後のスケッチに追記される。
Cathedral
from Rue des Changes
シャルトル寸描1;シャンジュ通りからの大聖堂(pm7:26 267°)
Place
de la Poissonnerie e Office de Tourisme
(シャルトル寸描2;ポワッソヌリ広場と観光案内所(am7:37 90°))
L'Eure
from Pont Bouju
(シャルトル寸描3;ブシュ橋からユール川(am7:55 323°))
église
St Pierre from Pont Taillard
(シャルトル寸描4;タイヤール橋からピエール教会の尖塔(am8:16 162°))
Cathédrale
Notre-Dame de Chartres from Rue de la Guillaume
(シャルトル寸描5;ポルト・ギヨーム通りから大聖堂(am9:44 291°))
さて、午後の一番でSt. Malo(サンマロ)へ移動。
今回のブルターニュへの旅は、6年前のCamino Francés(フランス人の道)で知り合った夫婦との出会いから始まる。とにもかくにも一回ブルターニュにおいでと強く誘われていたからだ。パリに2年間滞在した40年前にもボース平原を車で飛ばし、どこまでも麦畑が続く道を西へ西へと行き、ついに海岸に辿りついた思い出がある。海岸の断崖にへばりつくように黒い屋根の家が重なり合っていた様子が忘れられない。そういう思い出も含めて、夫婦の活動拠点であるSaint Brieuc(サン・ブリュー市)に行って再会を果たしたいと頻繁にメールでやり取りした結果、こういうところがいいだろうと紹介のあった場所の数々。パリからSaint Brieuc(サン・ブリュー市)に至るまでに紹介されたところは自力で歩くというスタンスで行程を決めていったのである。そこでまずはサン・マロが候補に上がりそこから歩き始めようと思ったのだ。
Chartres 12:09 Le Mans 13:24 Le Mans 14:06 Rennes 15:20 Rennes 15:45 −16:10 −St Malo 16:35 temperature 7:00−13℃ 10:00−17℃ 12:00 −21℃ 16:00−25 ℃ Rennes(レーン)を過ぎた辺りで車内検札。ヴザレパコンポステラと問われる。コンポステラという単語が出てきたのでウィと。しかし別のことを聞いていたようだ。ノンと答えるとなにやらbilletに走り書きをしていった。乗り継ぎ時にBilletを改札機械に通さなかったためだろうか。
2回の乗り換えを経て、サンマロに移動。到着時の気温は25℃。暑い日差しを受けてまずはユースホステル(Youth Hostel Ethic Étakes)へと急ぐ。途中にあったスーパーに目星をつけあとで買い物。
ユースホステルは町の中心から離れている分、長い砂浜を見ながら旧市街へと行けまことに観光気分である。ビーチはぎっしりと人で埋まり、遊歩道も海水浴客で溢れており、それに面するリゾートホテルやレジデンスから出入りするする人たちも加えごった替えしている。なかなか夏らしい雰囲気である。さすが大観光地だけのことはある。
旧市街地は高い城壁で囲まれ中は暗い。しかしネオンなどで煌々と照らされ狭いメインストリートはさながら不夜城のように輝いてまぶしいくらいだ。城壁の中の旧市街はぎっしりと観光客で埋まっている。城壁。夕日を眺めながらクレープを食べ寛ぐ。町の中心にあるカテドラルをまずはスケッチ。
Cathedrale
Saint Vincent of St.Malo(サンマロ大聖堂(pm7:18 68°))
夕陽を見るためには高い城壁の回廊部分に上がる必要があり、上がれば市街地と違って開放感を味わえる。日没をレストランのテーブルから拝めるような店を探す。Crêperie Le Corps de Garde(クレープの店)がちょうどいい場所に建っていた。満席のようであったが、入り口の一テーブルが一つだけ空いていたので案内される。ブルターニュ名物のガレット(そば粉を生地にしたものが「ガレット」、小麦粉を生地にしたものが「クレープ」とこちらでは区別している。)を戴く。
生地はそば粉と塩が使われていてこれだけで十分主食になるほどで、その上に卵2個などとトッピングしていき、4隅を折りたたんで小さくしたものがでてくる。真ん中には半熟の卵が入っておりナイフに切り分け乍ら口に入れていく。デザートに甘いタレがかかったクレープを戴いたりと。
Crêperie Le Corps de Garde and Salle Sainte Anne ,Hôtel San Pedro
(サンマロ・クレープの店(クレープリー:コープ・デ・ガルディ)とホテル群(pm8:21 0°))
赤い天幕と奥の木枠のガラス窓が、Crêperie Le Corps de Garde 。
Map
Betweeen Chartres and St.Malo(地図:シャルトルからサンマロ(電車移動))
サン・マロは、モン・サン・ミッシェルとは直線で40km弱しか離れていないが、前者はブルターニュー、後者はノルマンジーに属する。
【04.2016.8.14(日) St.Malo(サン・マロ)からChâteau do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)まで】+【Memoirs4 】
サン・マロからSaint Brieuc(サン・ブリュー市)までは徒歩で70kmの行程であるが、Dinárd(ディナール)とCap Fréhel(フレエル岬)の2箇所を追加すると94kmとなり、2泊3日の行程となったという次第。1日目はDinárd ディナールの町と絶壁、丘陵地帯に続く田園風景を楽しめ、2日目は最大のViewポイントであるCap Fréhelを中心とするトレッキングルートを堪能するというスケジュールを組んだ。
本日のコースは、St.Malo(サン・マロ) −Dinárd(ディナー)−La Chabbosay (Camping site−Château do Galinée ガリネーキャンピングサイト) (テント)の32km。
サン・マロの波止場から対岸のDinárd(ディナール)までは直線距離でほんの1km。湾を一周するコースは途中長い橋もあり10kmもある。フェリーを利用するのが一番であるが、時間があれば景観を歩行で楽しみたい。フェリーの日曜日の出航は10:00を過ぎる。これでは余りに遅い。今から徒歩で湾を一周する場合と、出発時間の遅いフェリーで対岸に渡る場合とは到着時間であまり差が無い。というわけで予定通り徒歩でDinárd に向かうことにした。
Dinárd(ディナール)までのフェリーの波止場は08_01_003_aポイント
湾を大きく時計回りに進むことにする。
立派な橋は長さが770mもある。
Saint-Servan-Sur-Mer(サン・セルヴァン・シュル・メール)の地区へ坂道を上がっていく。日曜日でもパン屋は開いている。通りをみれば必ずパンをぶら下げている人が通るので店がopenしているということがわかる。
GR34というトレッキングコースがブルターニューの海岸線に沿って存在するということを初めて知った。なんと1000kmにもおよぶルートでほぼブルターニュー半島を一周している。
サン・マロの市内からもこのルートへの小道があり海岸林の険しいジグザグの道が始まる。(地図で示すと、08_01_005のa、b間)このジグザグにはまってしまうと、距離はあるのに、一向に前に進まないというジレンマに陥る。
山道の常として行きつ戻りつするからである。こちらのように30数キロを歩く身にとっては森の中の道ほど辛いものはない。Briantais(ブリアンテ)ピークとBrebis(ブレビ)ピークを結ぶ箇所に770mくらいの長大な橋が架かり遥か下に釣り糸を垂らす男性達5,6人。潮の流れが激しく恰好の釣り場となっているようである。対岸からもトレッキングルートが続き、丘へのぼりつめるルートが用意されている。
高度差は50mくらい。なかなかしんどいものがある。
Landscape
of Dinard from Baie du Prieuré;
(ブリュレ湾からディナール市街を眺望)
ディナールのPlage de l'Écluse(レクルーズビーチ)には素晴らしいプロムナードがあり、これに岩礁が続く。ここにもトレッキングコースが続く。実はこれが問題でそんなこととは露とも知らず、何百mもこのコースを辿って行ったのであるが、歩数カウントがまだ甘く、地図をよく見ていなかったせいもあり曲がるべきポイントを見落とした。
曲がるというのはトレッキングコースから外れるということで、すべて急峻な階段で50mもの断崖絶壁を登らなくてはならないということを意味した。手すりがついてはいるものの垂直に近い階段をのぼりつめるというのは相当の勇気がいる。
(地図 08_01_006のdから町に上がらなくてはならなかったが、トレッキングコースが海岸沿いにづっとついておりどこまでもそのまま西へ進んでしまったのだ。このあたりMaps.Meのトレース通りになぜ進めなかったが疑問。この時期はMyMapのみを見ていたようだ。)
都市空間が丘の上に展開され、いきなり別世界。My Mapにも書いていない場所から予定コースへ合流という試練を経なければならなかった。この場合もMaps.Meが大活躍をし複雑な経路もコンパス頼りに1,2kmで合流できている。
あとはひたすら田舎道を紆余曲折を経ながら30kmも歩く。
キャンプ地に辿りついたが、ここは別の意味で別天地。外部とは隔離された町となっているのだ。プール、レストラン、ミニコンビニ、なんでも揃っている。
キャンプ用として宛がわれた敷地には自動車用のコンセントしかなくアダプターは25€だという。共同スペースに普通のC型コネクタがあったのでそこで充電。洗濯機もキャンプ場固有のジトンを使うようになっており両替をしなければならない。
何泊もするには都合がよかろうが、外国人にはきついキャンプ場である。こちらに来てから初めてのテント張りとなった。
Map
Betweeen St.Malo and
La Chabossaye・・Camping Château de Galinée
(サン・マロからラ・シャボセイユ郊外のキャンプ地-シャトー・ガリネまでの地図)
【05.2016.8.15(月) Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)−Camping de la Plage de Saint Pubu(サン・パブ キャンピングサイト)】+【Memoir5 】
本日のコースは、Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)−CaP Fèrhel(フェレール岬)−Camping de la Plage de Saint Pubu(サン・パブ キャンピングサイト)までの38km。
トレッキングコースを辿り相当の時間を要する。19:45 やっとCamping de la Plage de Saint Pubu に到着。フレーエル岬(Le Cap de Fréhel )の断崖につくトレッキングコースを歩いている間に随分と時間をくってしまつた。1日でこんなに歩いた事がないというほど歩いた。日没は21:18頃か。
up-downの厳しい長丁場かも知れないがともかく次のキャンプ場には受付時間の19:00には入りたいとして、Camping Château do Galinée(ガリネーキャンピングサイト)を朝早く出発。
キャンピングの人たちを起こさないようにそっとテントを撤収し身支度。星が輝く夜道を、田園地帯をまっすぐ西に抜けていく。Matignon(マティニョン)の町からはD787に沿って北上。フレミュール川が湾内を流れるといってもほとんど遠浅の海に残された葦だけの平坦な大地が見えるだけ。陸と海の境界が定かでないないような場所を横目で見ながら丘の上を進む。
9:00-10:00 半島の付け根で休憩(朝食)7km先の岬に向かう。一旦は海岸べりを歩くがすぐに崖の上にあがり、半島の先端に向かう。殆どの車は先端にあるCap Fréhel(フレエル岬)を目指しているようで、目の前がどんどん開けてくる。CaP Fèrhel(フェレール岬)へ快晴 22℃。
ここで期待した土産物屋、食堂、Barなどの構造物は資料館を除いて一切無いということが分かりショック。日本とは違うのだ。
フレエル岬は凡そ60mの断崖で、灯台や要塞が建つほかは岩石が織りなす絶景美。散歩道がどこまでも続く。車の道とは違い相当なup-downであるが、紫色の小さな花で埋め尽くされた斜面や遠くの岬が眺望でき実に気持ちがいい。いたるところに砂浜が展開され、そこで遊ぶ人の姿が真上から眺められる。皆は手ぶらか小型のリュック。こちらは大きな荷物にストックという出で立ち。
Cap Fréhel(フレエル岬)
Cap Fréhel(フレエル岬)
Cap Fréhel(フレエル岬)
次のキャンプ地までもVallée de Dianeヴァレ・ド・ディアンヌという大きなビーチを有する町がありメインストリートには夏のヴァカンス真っ最中の人たちが行きかう。
Plageのキャンプ場は砂浜が目の前にある。内陸や崖の上にあるキャンプ場と違って圧倒的な人気を誇る。営業時間も夜8時までと昨日のより一時間遅い。7時45分着で滑り込みセーブ。キャンプ場が利用できると言うことは洗濯物が一気に解決できるので重宝。ジトンという特別の通貨を洗濯機に仕込む。1時間もあれば乾燥まで含めて完成。色んなジトンがあるらしく最小の機械をあてがわれたようだ。一人から二人用ということであったらしい。前の2人組、その洗濯機にぎっしり詰め込んだらしく殆ど洗えていない。それをかき出し自分のを洗濯はじめる。かき出した山のような洗濯物を畳んであげたがそれでも高さ50cmも積み上がった。どういう神経をしているのであろうか。
Map Betweeen La Chabossaye・Camping Château de Galinée and Camping Plage de St.Pabu
(ラ・シャボセイユ郊外のガリネーキャンピングサイトからサント・パブ・ビーチ・キャンプ場までの地図)
【06.2016.8.16(火) Camping de la Plage de Saint Pubu(サン・パブ キャンピングサイト)- Plouezec(プルーエゼック)・・17(水) Ploumanac'h(プローマナック) 18(木) Ile de Bréhat(ブレア島) 8..19(金) Paimpol(パンポール)】+【Memoir6 】+【Memoir7 】+【Memoir8 】+【Memoir9 】
8/16 本日のコースは、フランス・ブルターニュ キャンプ地 Camping Plage de St.Pabu(サント・パブ・ビーチ・キャンプ場)からSaint Brieuc(サン・ブリュー)→Plouézec(プルエゼック)までの32km+車42km。
Camping Plage de St.Pabu(サント・パブ・ビーチ・キャンプ場)を早朝抜け出して、Saint Brieuc(サン・ブリュー)を目指す。朝は例のごとく真っ暗な中5時起床でテントを畳み始めた。まだまだ不慣れなためにライトを点けなくては物の格納場所が分からない。慣れてくれば闇夜でも手の感触だけで采配はできる。テントのなかをぐるぐると回転しながら物を探しては該当場所に詰め込んでいく。
スタッフ袋は強力な武器でリュックに縦置きするだけでジグゾーパズルのようにきっちり隙間もなくはいっていく。寝袋はダウンであるため容積がかさばる。あばれるダウンを足元の部分からサックに詰め込んでいく。畳んでからではとても入りきらない。順番にぎゅーぎゅう詰めでいれていくと最後にはサックに収まってしまう。さらに圧縮用の道具で前後から締め付けると容積は2/3ほどになり上々。テントは濡れたままなのでこの分が重たくなる。
途中のスケッチポイントCoquinet(コキネ)や、クレープの店Creperie Des Greves は、なんとこれから会うHouze夫婦が昔住んでいた所とわかりその偶然に驚愕。下記スケッチの絵を見るなり、ここCoquinet(コキネ)!と叫ぶ。
Saint Brieuc(サン・ブリュー)手前10kmの地・Coquinet(コキネ)1
Saint Brieuc(サン・ブリュー)手前10kmの地・Coquinet(コキネ)2
15:00にはSt.Brieucの町に到着。カテドラルを見学しスケッチしてから駅前に進む。
Saint-Brieuc
Cathedral Saint-Étienne de Saint-Brieuc (サン・ブリュー)大聖堂
ここで6年前に知り合ったHouze(オーゼ)夫妻を待つ。タクシー運転手が語りかけてきた。どうも客引きであったようだが顔が似ているのでお兄さんの方が迎えに来てくれたかと思い暫く話し込む。とそこへニコニコ顔の夫妻が現れ事なきをえた。あれからSt.Briuecに会社を起こして奥さんを含めて3人で会計コンサルタント業を営んでいるようでありここが活動拠点。来週CCC (クールマイユール・シャンペックス・シャモニー・ウルトラ・トレイル Courmayeur - Champeix - Chamonix)を走る息子さんも此処に住む。
一旦その家に寄り夕食と歓談。ここで土曜日のナントまでの移動手段行動としてBlaBlaCarがよかろうと。これは面白いことになった。夫婦が実際にすむ北部のPouezecへ移動し荷物を降ろす。
Map Betweeen Camping
Plage de St.Pabu and Saint Brieuc(キャンピングサイト・パブ・ビーチからSaint Brieuc(サン・ブリュー)までの地図)
17th Aug(Wed)
Houze(オーゼ)夫妻と共に5日間を過ごした。その2日目・・自宅のあるPlouézec(プルエゼック)から50km離れたPloumanac'h(プローマナック)へ行き、トレッキングを楽しんだ。遠浅と奇岩が織りなすブルターニュ特有の景観。海岸を20kmばかり歩いた。
本日のコースは、今日はGR34(ブルターニュ北部)があるPlouezec(プルーエゼック)−Ploumanac'h(プローマナック) by car−GR34 tracking routeの徒歩20km、車50km。
雌猫(めすねこ) キャプシーヌが朝の挨拶。2階の窓から朝日が射す。翌週の月曜日から、シャモニーで行われるトレッキング大会に出る息子さんの応援に駆け付けなければならない時にだ。1日あればシャモニーへの旅行のパッキングができるためOKだとは言ってくれていたが、土曜日の朝まで、火曜日のSaint Brieuc(サン・ブリュー)駅前での再会から数えて5日間のお付き合い。今から思えば、毎日20kmくらいの歩行を三日間連続で! ヴァカンス中の夫婦がよくぞ付き合ってくれたと感謝でいっぱいである。最高の”おもてなし”。こんな接待を受けれるなんて なんと贅沢なことだったのだろうか。感謝感激である。
気温19℃ この地域はブルターニュ語が使われる。coz porz= old harver coz ty=old fatherなどと。今日のトレッキングはgeographicaで計測した結果では20km。海の干潮を利用した水車(ムーラン・ア・マレ)の小屋があちこちにある。1836年からあったようにこの地域は干潮の差が大きいという。
びっくりしたのは泥海に放置されたボート群。実は引き潮で置いてけぼりにされた無数の船たち。
これは心配に及ばないという。満ち潮になれば元のとおり静かに海に浮かぶからと。干満差10m以上もあるこの地域独特の風景であるという。
遠浅が7kmも続くというのに、満潮時に一気に潮が満ちてくる。トレッキングコースでも時刻によっては通れない道もあり注意が必要。まだ潮が浅い場合はルートを変えるより靴を脱いで歩いたほうがよい。さてPloumanacが名を馳せているのは奇岩の重なる海岸線。3000m級の岩の山が海中から隆起し年月をへて現在の姿になったという。複雑な海岸線と奇岩、遠浅にあちこちに取り残された船が砂に埋まっている姿や多数のヨットが浮かぶ景観はどこまでも美しい。ナポレオンハットなどと名付けられた岩が鑑賞出来る。岩山にも登れるが帰って来れるという保証はない。おば様も爺さんも含めて老若男女がロッククライミングに取り付く姿は滑稽でさえある。砂浜で寝そべったり芝生の崖で幼児が遊び回ったりとヴァカンスを寛いでいる。
Ploumanac'h(プローマナック)で遊ぶ。
昼食を岩の上で食べた。子供連れの家族も別の岩の上。子供たちは元気に遊んでいる。上の女の子はお転婆のようだ。岩と岩の間に足を置いて登ってこようとしている。
大きなカモメが食事の残りを欲しそうにだんだん近づいてくる。
潮力を利用した水車小屋の遺産があちこちで見られた。
Map Betweeen Saint BrieucからPlouézec(プルエゼック)。
Plouézec(プルエゼック)からPloumanac'h(プローマナック)までの地図、
Ploumanac'h(プローマナック)のトレッキングルート。
ブルターニュの俯瞰地図とともに。
18th Aug(Thu)
本日のコースは、Plouezec−Ile de Bréhat(ブレア島)トレッキング。 徒歩20km、車14km、フェリー1km。17℃
Houze夫妻の家があるPlouézec(プルエゼック)から14km離れたLa pointe de l'Arcouesr(ポワント・ドゥ・ラルクエスト)へ。そこからフェリーに乗って1km北にあるÎle de Bréhat(ブレア島)へ向かう。潮の満ち干により船着き場が変わるという。長いスロープはその分を考慮して作られているが、さらに潮位が下がると、歩道が現れずっと先のpointになるという。合計3箇所の船着き場が用意されている。
フェリボート10:45出航。諸島巡りの船も直前に出航。
島は2つに別れ、その間は橋で結ばれている。道が縦横に張り巡らされているが、農耕者を除いて車が禁止されている分レンタル自転車が頻繁に通る。我々はさらに海ぎわの、潮が引いたばかりの浜辺、時には海藻の上を踏みながらトレッキングしていく。
トレッキングの為にこれほど多くの人が島を訪れるような島が日本にあろうか。一周20km位の島には海岸線を含めて無数のトレッキングコースがあり健脚度に合わせて色んなコースを楽しんでいる。8人の団体が歩いてきたと仮定してみよう。決まって4人が子供である。それほどに歩きを楽しむ家族が多い、走っている赤ちゃんもいるほどで微笑ましい。このエリアも10mの干潮差分があり潮力発電の遺跡がある。満潮時に池に海水が流れ込む。引き潮時に、ゲートに設けられた水車が回るというシステムは大掛かりなものである。
時々は陸に上がったりしながらup-downを繰り返す。夫婦は10回以上も来ているというが毎回別の道筋のようである。
地名は「Ot Plat」「Phare du Paon(パオン灯台)」「Le Port Clos」「Ti an Douristed(Office de Tourisme)」などブルターニュー語(ブルトン語(Breton))で書かれている(時にはフランス語と併記)。この地域はもっともブルターニュー語を喋る人口が多いという。婦人のフランソワの両親がブルターニュ語を話すという。ミシェル氏自身も2年間学習して身に着けたという。
それぞれを解説してくれる。最北端にある灯台を見たらUタウンである。島を半周して帰路についた。
今回もMaps.Meの地図が良く利用できた。網の目のようにあるトレッキングコースのどこに居るかがたちどころに分かり、磁石を合わせてこちらが指示を飛ばす。偉そうに!
島はアガパンサスのコレクションではヨーロッパ1という。(注:アガパンサス属、日本ではムラサキクンシランをよく見かける。単子葉植物で一本の突出した茎に6月ころ多数の紫色の花が球状になって咲く。日当たりがよいと年々株が増えていく。)ブレア島全体が植物園のように草花が豊富であるが、南島にアガパンサスだけを集めた一角があった。自由に入れるようであるが個人所有の敷地なのであろう。教会と隣接しており静かな空間。
Îl de Bréhat(ブレア島)で遊ぶ。
Chapelle Saint-Michel サン・ミッシェル教会(ミッシェル氏と同じ名前の教会である。)の高台から(220° 12:22)
Îl de Bréhat(ブレア島)の引き潮
船が打ち捨てられたような感じ。満潮時には元に戻る。
Map Île de
Bréhat(ブレア島)のトレッキングルート。
19th Aug(Fri)
朝から雨 気温17℃この時間を利用してHouze氏にGeographicaとMaps.Meを講義。あかん。すぐ教師癖が出てしまう。
本日のコースは、Plouézec(プルエゼック)の知人宅から歩いてのPaimpol(パンポール)までのトレッキング。往復20km。Fête des veiux Gréments Paimpol パンポールの祭りへGR34を通っていく。
海沿いの地域なので家から北に1kmほど歩けば、GR34のトレッキングコースにぶつかる。サンマロから何百キロも続くコースである。
遠浅の海ではタイヤ付きの漁船が何台か。潮が引いた後は、遠浅の海をタイヤで移動し牡蠣の養殖漁業に活躍するのだ。
断崖から海辺へ、砂浜から陸地へ、葦の原から池のある公園へ、と周囲は目まぐるしく変化する。急坂あり、磯の岩だらけの道あり という感じで一瞬たりとも気が抜けないコース。
この中にも、仕掛けが用意されていた。Abbaye de Beauport(ボーポール修道院)である。海浜の開けた緑地にひっそりと建っている。庭は綺麗に手入れされ花が咲き乱れている。
小さな半島を高度を上げながら上がっていく。ちょうど先端部分で、反対側にある港から上がってきたのだろう、可愛い汽車型観光バスが到着していた。乗客たちはそこを降りると岬の先端まで歩いて海を眺めている。
今日は港町のPaimpolではお祭りの日で、その一環としてここまで遠出をしてきているのではないだろうか。Paimpolは遠洋漁業の拠点でもある。遠洋漁業の拠点パンポールの港では19 20 21と3日間お祭りが行われ多数の人手。2年ごとの奇数年が更に大きいお祭りとなる。Houze夫妻もボランティアで参加するという。画家のLionel le Calvezの画廊に行ったりと。
Paimpol(パンポール)の港
Map Paimpol(パンポール)へのトレッキングルート。
【07.2016.8.20(土) Plouezec(プルーエゼック)−Nantes(ナント)】+【Memoirs10】
朝一番、Houzeオーゼ邸で氏より、朝方白と黒の縞のブルータニュの旗(Drapecu Breton)について講釈を受ける。
ブルータニュ9つの地域のなかでブルターニュ語を喋らない地域としゃべる地域がそれぞれ5つ4つ。
黒の5本の縞はブルターニュ語を喋らない地域。()がフランス語表記。
・Rennes
・Nantes
・Dol de Bretagne
・Saint Malo
・Penthiévre (Saint-Briuc )
黒に挟まれた中側の4本の縞はブルターニュ語を喋る地域
・Lêon (Saint Pol de Léon )
・Trégor (Trêguie )
・Cornouaille (Quinper )
・Vannetais (Vannes )
因みにフランス語と(ブルターニュ語)との違いでは
白 blanc(ブラン) :Gwen(グェン)
黒 noir(ノアール) : Du(ドュ)
星条旗の星の位置にある11個の模様はハクビシンを表すという。
ブルターニュのファッションは佐川急便の青横縞とそっくりの縞模様という。
色は青だけでなく色々な色がある。シンプルな一色のみのシャツ。
さて、本日のコースは、Plouezec(プルーエゼック)−St.Brieuc(サン・ブリュー)−Nantes(ナント)までの車205km、徒歩7km。フランスはブルターニュ地方の最南部の大都市ナントへ。ロワール川の中州を埋め立てて造られた貿易港もあり、中世以降大発展をした都市である。
Houze氏に車でSt.Brieuc(サン・ブリュー)のBlaBlaCar(ブラ・ブラ・カー SNCFGが運営母体の乗り合いタクシー)の発着場まで連れていってもらい、そこからNantesまで移動した。途中ランスで女性客を1人のせ計3人がナント駅まで旅をする。BlaBlaCarは、乗り合いタクシーのような感じで個人経営ながらバックに強大なSNCFが付いている。4人が便乗すれば御の字という。今回は3人なのでまずまずというところか。TGVだと60€以上するのに、BlaBlaCarだと13€程度とお得。
ただTaxi運転手には英語を喋れない人が殆どで交渉には闊達なフランス語が必要になる。予約は信用取引となるためアイデンティティを証明するために個人名登録のFacebookが必要となる。
今回はHouze夫妻のご子息でSaint Brieuc(サン・ブリュー)に住むKelingさんが全部交渉をやってくれお金まで払ってくれた。彼は4年前の7月に一緒に富士山登山をした男性である。8/16にSaint Brieuc(サン・ブリュー)駅前で夫婦と再会した後、市内に住む氏の家に足を運び、シャワーを頂戴しつつ皆で夕食を食べたのである。その席でBlaBlaCarが話題になり、その後で交渉してくれていたのだ。日程と行程がはっきりすればnetで検索できる。運転手の経歴や年齢が表示され、その中から自由に選ぶことができるのだ。アイアンマンだった彼は富士登山のあと数々の大会に出場し頭角を現している。8月26日(金)開催のCCC(クールマイユール・シャンペックス・シャモニー・ウルトラ・トレイル Courmayeur - Champeix - Chamonix)に出場した。
ナントの大聖堂(Cathédrale St,Pierre ) の中ではトランペットとパイプオルガンの厳かな響き。祭壇後方のステンドグラスは黄色と赤が基調になった明るいもの。13mx4mといった大きな縦長のステンドグラスは南側が斜め格子の無色、北側が複雑な草模様で多角形を積み上げたような仕切りに淡い灰色、水色が基調。
Église St,Clémentサンクレメンテ教会 、Jardan des planetナント植物園などを見学。
ナントの勅令(Édit de Nantes)で有名なナントであるがそれ以外に何も知らない小生は、ナント駅前から孤独な旅が始まった。午後は時間の許す限り歩き回ることだ。
Cathédrale
Saint-Pierre-et-Saint-Paul at Nantes(ナント・サンピエール大聖堂 と門)
左側の緑は、サン=ピエール(Cours Saint-Pierre)広場の街路樹
Château des ducs de Bretagne at Nantes (ブルターニュ公爵城)
Rue des Ètats(エタ通り)からスケッチ
ナント島にも足を延ばし、Les Machines de l'île (マシン・ドゥ・リル)を見学。
Machines de l'île (マシン・ドゥ・リル)にはフランソワ・ドゥラロジエール(Francois Delarozière)を中心とするアートスペクタクル集団「ラ・マシン La Machine」のアトリエがある場所でナント島西北部の一角
Château des Ducs de Bretagne、Église Saint-Clémentなど市内を見学。
rue Maréchar でタイカレーThaiCurreyの店発見 甘いエビ(crevette クレヴェットウ)が入った白いカレーに辛い香辛料をたっぷりかけたおかげで汗が吹き出てきた rue de château ,rue de Verdun rue des Camesなどを散策。
気温22℃以下の寒い気温。時々驟雨があったり目まぐるしく天候が変わる。19:20
bistro brasserie crêperie-saladetie irish-pub
Rue des Carmes and Rue des Halles --Le Café Cult',Amour de Pomme de Terre (カルム通りとハルム通り、赤いパラソルのカフェ クルと赤い天幕のアモール・ポンド・テのある景色)
赤い傘が目立つ。caféでは路上桟敷に溢れんばかりの人たち。路上演奏を聞いたりしている。
Map Between Saint Brieuc and Nates(サン・ブリュー、レンヌ、ナント)
【08.8.21(日) Nantes(ナント)からMontaigu(モンテギュ)まで】+【Memoirs11】
本日のコースは、Nantes(ナント)からMontaigu(モンテギュ)までの34km。
朝方の気温15℃。ホテルの朝食は8時からという。本日はテントの予定。現地に遅く着くためには好都合である。途中で昼寝等しながら距離をゆっくりと稼げばよい。
大通りは名前を目まぐるしく変えていく。Avenue Carnot(カルノ通り)、Avenue Jean Claude Bonduelle(ジャン・クロード・ボンデル通り)、Boulevard Général de Gaulle(ジェネラル・ド・ゴール 通り)、Boulevard Emile Gabory(エミール・ガボリ通り)と。一貫して太い道路が続く。
Bras de Pirmil(La Loire)(ブラ・ド・ピルミル(ロワール川))を渡すPont Georges Clemenceau(ジョルジュ・クレマンソー橋)を通り、立体交差を上がっていくと、いきなりの小道進入。自作の地図(My Map)通りに道を取るには勇気がいる。今までの立派な道から一転、幅8mほどの狭い生活道路Rue de la Gilarderie(ジラールドリー通り)に入るからだ。
両側に家が立ち並ぶ地元民のための道路でこのようによそ者がずかずかと歩いてもよいのだろうかと一瞬思うのであるが、ここを通らないわけにはいかないのである。公園までの最短ルートであるゆえ。
川沿いの遊歩道はマラソンランナーの格好の練習場所らしい。日曜ということもあり多くが行き交う。
蛇行するLa Sévre Nantaise(セーヴル・ナンテーズ川)に沿って数々の公園や、トレッキングコースがあり、別天地のような場所。途中からもう隣の町:Vertou(ベルトゥ)に入っている。ここで道を取り違えている。今後何回もある現象であるのだが「行き止まり」という標識にたじろいで別の道を取ってしまったのだ。あくまで自動車用の標識であり、行き止まりの場合でも階段や細い道があり歩くことが出来る場合もある。もちろんフェンスで遮られて行き止まりとなっているケースもあるが。500mばかり遠回りをさせられている。
さて、10kmごとに休むという歩行計画なので、この川に架かる橋を渡った箇所で休憩。川にカヌーを組み立てて今から川に浮かべようとしている人たちをスケッチした。この後は炎天下の中を南へ南へと。ボルドーに向けて過酷な歩行が続いている。
La Sévre Nantaise(ナント近郊・セーヴル・ナンテーズ川の風景)
ナント南東の方角に10km進むと葡萄畑が出現した。
ロワール川の「白」であろうか。1600kmというフランス1を誇る川の河口。
「ミュスカデ・ド・セーヴル・エ・メーヌ・シュル・リー」という葡萄酒が有名。
ブツブツ言いながら到達した町がMontaigu(モンテギュ)。pm6:30。ピザ屋が開いていたので通りに面したテラスで食事。この店の裏に広がる広大な公園はLa Maine(ラ・マイネ川)に面している。つり客に紛れてテントでも張ろう。
Map: Between
Nantes and Montaigu
(ナントからモンテギュまでの地図 徒歩34km)
【09.8.22(月)Montaigu(モンテギュ)−Chantonnay(シャントネ) 】+【Memoirs12】
本日のコースは、Montegue(モンテギュ)−Chantonnay(シャントネ)までの39km。 快晴。
当初は37km目でテント泊の予定であったがもう少し先に行くとChantonnay(シャントネ)があると気づいたので、宿を取った次第だ。ロワール川の南部にあたり肥沃な土地を好む葡萄の産地なのであろうか。シャントネという名前のワインが有名である。自転車24H耐久レースのル・マンからは440kmという位置にあってこの町を通る。
5:00に公園の中、川の側で設営したテントを畳んで出発。昨晩21時過ぎに公園に入れたのは偶然らしい。20時には閉められるべき公園であったようだ。当然早朝時には閉まっている。高い塀が連なっており焦り狂う。運よく低い部分を見つけたのでそこを飛び越える。外は一般道路であった。開門閉門の管理下にある公園は利用すべきではなかったようだ。反省。ビバークは農場の隅か森に限る!
さてモンテギュの町から20km PointにBarを見つけた。メニューが看板に書いてあるので店に飛び込んだが正午からだという。1時間をここで過ごすのは惜しい。しかも軽い昼食ならリュックにもあるため6km先のガソリンスタンド、15km先のレストランを停留スポットと考えコーラと水の補給のみで出発。
D137は国道であろうか。立派な規格の道で路肩1.5mと草地1mといったように歩きやすい。雑草のなかに野良坊菜(のらぼうな)とそっくりな草をみつけた。食してみると葉っぱは堅いものの味は似ている。種子が飛んできてこの辺だけに雑草化したものだろうか。
朝は極端に寒いが日が昇り日中になるとカンカン照りとなる。
正午頃からソーラー発電の効率が良くなる。ほぼ4時間で50%は満たされる。タブレットも午前中の機内モード使用で75%と。1台のバッテリーを昼間は太陽エネルギーを貯め、夜間や早朝時に給電とすれば効率よく回転出来る。大きすぎたと思ったパネルもリュックの雨蓋の上に置くことができちょうどよかったようだ。
29.9kmポイントに15:06に到着。My Mapのpointでは11_02_009のd pointに当たる。
上下の地図では11_02_009_d 11_02_010 aが同じポイント
十字架と木陰の広場があったので休息。ソーラー発電は既にfullになっていた。充電とタブレットへの給電が同時に出来るかも実験してみよう。その間に1時間ほど昼寝。暑すぎるのだ。
34km pointで St.Vincent-Sterlanges(サンヴァサン=ステランジュ)のBar,Pubに入ってくつろいだ。あと6km。カンカン照りであまりの暑さに逃げ込んだ形。兎に角出されたものは水で流し込んでも全部食べなければ!栄養補給のために。
リュックの後ろにホタテ貝を付けている。この熱いのに街道を歩く人は皆無だということもあり前からも後ろからも警笛がなるようになった。窓から全員が手を振ってくれたりする。頑張らねば。
印象としては非常に平坦で山が見えない地域にあたる。町への入り方を誤り、ジャンクションを遠回りすることになろうとは。しかし入り口に大きなスーパーがあったので買い物をしてからホテルに直行。
距離は長くても朝五時から歩いているので夕刻には到着。町を散策したのち、ホテルで夕食。ホテルがレストランを兼ねているというパターンが多いが、客以外にも近所の人たちでレストランは賑わっている。移動距離が少なくてすむので一番効率がよい。レストランが閉まった後の、部屋への入り方は、玄関にある暗証番号キーを操作する。
そのメモを失くしたら入れないためしっかりと保管。
Chantonnay(シャントネ)の広場
Map: Between
Montaigu(モンテギュからシャントネまでの地図 徒歩39km)
【10.8.23(火)Chantonnay(シャントネ)−Les Huttes(レ・ズテル)】+【Memoirs13】
本日のコースは、Chantonnay(シャントネ)−St.Hermine→St.Aubun-la-Plaine−Les Huttes(レ・ズテル)の33km。
7:45スタート。Chantonnay(シャントネ)からはD949Tを真南に進む。その後は直線コースとして控えているRue du Bazar(バザール通り)を南下しD137に合流する。
9:55最初の休憩。タブレット72%。
寝そべって見上げると木々の葉っぱは1/40ぐらいが黄色く色付きその一部が風に吹かれて飛んでいるのだ。道にずい分落ち葉が散り敷いているのはそのせいだ。こちらではもう秋が始まっているのかも知れない。朝晩が15-17℃と低いのも季節の移動のせいかもしれない。
ここからは農道のような細い道に分け入る。Chemin de Trougnard(トルーニャール通り)というように「Rue」ではなく「Chemin」という1ランク下の狭い道になる。名前からして心細い道である。トウモロコシ畑が延々続く農道で背の高い林の間の小道をひたすら進む。なにせ一辺が800mと長いので、境界線が遥か先に見えるという具合である。農道が完全な耕運機用の道となったりはっきりしない部分もあるため歩数を正確に測定しながら、コンパスとにらめっこの歩行となる。日陰がないため頭上の太陽が痛いほどだ。
Chemin de Trougnard(トルーニャール通り)からは心細い細道。
大農場はトウモロコシ畑。高く実ったトウモロコシが視界を遮る。
カンカン照りの中にわずかな日陰を求めて休憩。
こういう場所は別の意味で地獄である。もとよりBarなぞなく、まして水もないため生命線はリュックの持ち物だけという状況。道行く人や車もなくポカーンとした孤独の中にいる。
Route des Estuaires(エスチュエール道路)という名前を持つA83という高速道路を跨ぐ。ここなどまさに最果ての場所のような乾いた土地。(11_03_007_c point)
さらに暑くなる。もう限界である。日陰を見つけてマットを敷いて一休み。寝入っていたら車が止まった。女性の運転する車である。大丈夫かと聞いてくれる。あまりに暑いためここで休んでいるのだと説く。オレンジやグレープフルーツで喉を潤せているので大丈夫なのだが。本当はヒッチハイクでもしたいところではあるが。そこまでは手を差し伸べてくれない。
次の村、St.Aubun-la-Plaine(サン・トーバンヌ・ラ・プレンヌ)ではじめて人に会う。教会の補修を皆でやっているのだ。
Naliers(ナリエ)の手前500mに農家の大きな敷地。ポプラ並木さえある広大な庭。ここでへばっていたら、あるじが心配げにやってきた。家に入れという。冷たい水に青いミントのエキスを垂らしてくれて風味を付けてくれる。その美味いこととといったら。大きなトマトをお土産にもらった。ナリエのBarで大休止。今日はテント泊であるため急ぐ必要はない。ゆっくり時間をかけて休養を取る。
Naliers(ナリエ)はすこしばかり大きな町であるが、その一軒のBar以外は住宅街で静まり返っている。線路をくぐると、広大は放牧地が展開され始めた。運河が縦横に張り巡らされ、平坦な大地がどこまでも続く。日没が迫る。
ようやく運河の十字路(11_03_012_b)に、空き地があった。これも一辺が800mくらい。車道から離れてどこまでも進む。灌木が境界を作っている場所まで来た。満天の星の下にテントをそっと張る。道路を行く自動車のヘッドライトが時々光る以外は静寂。犬が遠くで吠える。かれらは少しの変化でも吠えるのだ。・・という暑い日のバテ気味の強行軍のためスケッチは不作。これは言い訳。
Map: Between Montaigu and Les Huttes
(シャントネからレ・ズテルまでの地図 徒歩33km)